【この地にダムを建設することになった理由】
水力発電にとって重要なのは、
この2つです。
黒部峡谷に流れる黒部川は、標高2924mの鷲羽岳から日本海まで約86kmを一気に流れる急流。しかも、年間降水量が4000mmと水力発電にはもってこいの地でした。
戦後の復興期以降、関西では電力不足が深刻な悩みとなっていました。停電も多く、電気を必要とする関西の製造業も当時の電気の量では規模を拡大できずにいました。
そこで、当時の関西電力代表取締役である太田垣士郎は黒部にダム建設をすることを決断。
もともと、この地方では降水量が多く、発電に適した勾配の川があることが調査でわかっていました。しかし問題は、手付かずの過酷な奥地の山岳地帯のため工事に耐えられるかでした。建設の時間がかかるだけでなく、建設費も莫大になる。材料や重機を現場に入れるだけでも一苦労。人的な被害も懸念される。
太田垣士郎の決断はとんでもなく無謀なものといえました。
黒部ダムの建設にあたり工区を5つに分割し、その工区ごとにその得意分野とする土木建設会社を指名しました。
長野県大町に事務所を構え開始された建設工事。
ダムの建設予定地は、北アルプスの立山連峰と赤沢岳の間にある黒部峡谷でした。
工事はまず、赤沢岳の直下を貫く大町トンネル(現関電トンネル)の掘削です。当時の最先端の機材を揃え順調に掘り進んでいましたが、トンネルから2600m掘り進んだところで毎秒500リットルもの地下水が噴出。
破砕帯の出現です。映画「黒部の太陽」では、この破砕帯との格闘が一番の見せ場になっていました。
それでも少しずつ掘り進んだものの、昭和32年7月になり大量の地下水と土砂崩壊によりついに掘削工事は完全にストップ。
この破砕帯の突破までに7ヶ月もの期間を要しました。岩盤を固めるための薬液注入やコンクリートでの整備、わざわざ水抜きのためのトンネルを10本も別に掘りました。
まさに黒部ダム建設最大の危機と言えました。
大町トンネル開通は昭和33年5月でした。
この大町トンネル開通により資材搬入ルートが完成。黒部ダムおよび黒部第四発電所の建設が本格化します。
【アルペンルートを訪れる観光客の方へ】
この関電トンネルでは外の景色は見えません。関電トンネルトロリーバスでただ移動してしまうだけになりがちです。しかし、この関電トンネルこそが映画「黒部の太陽」の中での一番のクライマックスです。
当時の男たちの汗と涙と苦労の結晶がこの関電トンネルです。ただ単にバスで移動するだけはもったいないです。当時の男たちの闘いにせめて思いを馳せていただければと思います。
昭和38年6月、黒部ダムは竣工致しました。
総工費は、当時のお金で513億円。殉職者は171名、延べ1000万人の人手が費やされました。
【参考サイト】
http://www.kurobe-dam.com/whatis/history.html